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8/25【全日本】テリー・ファンクさん追悼 渕正信インタビュー「俺にとっては身近なヒーローだった」

 テリー・ファンクさんの訃報に接し、全日本の重鎮・渕正信が25日、取材を受け、「本当に鶴田さんと同じような感じで俺にとっては身近なヒーロー」と敬意と哀悼の意を表した。

 渕は1974年4月に全日本でデビュー。当時、テリーさんは全日本の常連外国人として活躍するスター選手だった。若手時代、セコンド業務を務めながらリング上で戦うテリーさんの姿、名勝負の数々を見つめた。その中で感じたのはテリーさんの順応性。「たとえばビル・ロビンソンが相手でもホースト・ホフマンが相手でも、テリー・ファンクを見せて、そのうえでどんな相手でも対応できるんだよ。そういうのを見て憧れたよ」と当時を思い返した。

 ファンクス人気は77年に開催された世界オープンタッグ選手権の優勝と、ザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャーとの名勝負をきっかけに大爆発。特にテリーさんはアイドル的人気を博し、応援団も結成されるほど女性ファンからも愛された。リング上ではそんな大スターだったテリーさんだが、リングを降りれば大物ぶるような姿は皆無だったという。

 渕がテリーさんに初めて会ったのは入門した74年のこと。当時PWFヘビー級王者だったジャイアント馬場さんに挑戦するために来日したテリーさんは、一介の新人レスラーだった渕にも「結構、凄くフレンドリーに話してくれた」という。アメリカ遠征時には「アマリロの自宅に1ヵ月居候させてもらったんだよ。その時のことが印象に残ってるよな」、「大仁田が先に日本へ帰っただろ。そのあと俺はノースカロライナに行ったけど、テリーもノースカロライナに来て(ジャック・)ブリスコとか、リッキー・スティムボートとかとトップとして試合をやるんだよ。その時も飲みに行こうって感じでね。技をコーチしてくれたとかより、そういったプロレス以外での楽しい話とかが思い出深いよ」と振り返ったように異国の地で修行する渕を気遣ってくれたという。渕にとって馬場さんが「天上のヒーロー」なら、故・ジャンボ鶴田さん、そしてテリーさんは「身近なヒーロー」だった。

 ザ・ファンクスとして最後の来日となった2013年10・27両国大会では西村修と組んで対戦。記憶力に定評のある渕によると、これが最初で最後のテリーさんとの対戦となった。そしてテリーさんとの別れが突然訪れ、渕は「もしかしたら、また会えるんじゃないかなって気持ちがあったんだよ。いつでも会えると思ったから、本当はサンキューって言葉を言いたかったね。お礼を言いたかった」と無念そうに話した。

 全日本の歴史を担った偉大なレジェンドがまた一人、天に召された。9・8代々木大会で復帰戦を控える渕は「自分のことで精いっぱいだよ」とは言いながらも、まだまだ健在ぶりをみせつけるためにも11ヵ月ぶりのリングに立つ。


【渕の話】
――テリーさんの訃報を聞いた時、渕さんはどんな思いになりましたか?

▼渕「認知症っていうのは知ってたけどさ。昨日の朝に聞いてね。まさか亡くなると思わなかったから驚きが大きいよね。結構、晩年まで激しい試合やってたからね」

――渕さんから見てテリー・ファンクというプロレスラーの魅力は?

▼渕「やっぱり馬場さんからの信頼があったしね。昭和49年、俺が入門した年に初めて会ってね。夏にね、馬場さんのPWFに挑戦したんだよね、蔵前国技館で。その時から結構、凄くフレンドリーに話してくれて。こっちは若手なのにさ。それでNWAチャンピオンになって鶴田さんの挑戦を受けるために来日して、蔵前でいい試合やってね。オープンタッグでブッチャー、シークと凄い試合をやって」

――あの試合がファンクス人気爆発のきっかけになりました。

▼渕「凄かったよな。でもテリー・ファンクはテリー・ファンクで変わらなくて、本当に鶴田さんと同じような感じで俺にとっては身近なヒーローだよね。馬場さんみたいな天上のヒーローじゃなくて、身近なヒーローでフレンドリーでね。それにしても、あの頃の熱狂度は凄かったね。当時はマスカラスとテリー・ファンク、アメリカンヒーローとメキシカンヒーローの人気が凄かったよな」

――若手の頃、テリーさんにフレンドリーに接していただいたとのことですが、思い出に残っていることは?

▼渕「いくらフレンドリーでもスーパースターだからね。こっちは一介の若手だから。一番印象にあるのは俺がアメリカに遠征してさ、アマリロの自宅に1ヵ月居候させてもらったんだよ。その時のことが印象に残ってるよな。いろいろ面倒みてもらったよ。アメリカでは行くところ行くところ、フロリダにしてもテネシーにしてもノースカロライナにしても様子を見にくるんだよね。『元気でやってるか?』じゃなくて、『元気にやってるな、頑張ってるな』って。大仁田が先に日本へ帰っただろ。そのあと俺はノースカロライナに行ったけど、テリーもノースカロライナに来て(ジャック・)ブリスコと試合やったりとか、リッキー・スティムボートとやったりとか、トップとして試合をやるんだよ。その時も飲みに行こうって感じでね。技をコーチしてくれたとかより、そういったプロレス以外での楽しい話とかが思い出深いよ。あとはブッチャーが新日本に行った時は『心配しなくていい。これからみんながビックリすることが起きるから』って言ってくれたりとかね」

――それがスタン・ハンセンの移籍だったんですね。

▼渕「そうそう。あと(タイガー・ジェット)シンとかね。そういった面で全日本のため、馬場さんのためにっていうことでね。ファンクスが協力してくれたんだよ。いつも馬場さんの社長室にお父さんの(ドリー・ファンク)シニアの写真盾があってね。テリーが来た時にいつも写真盾を見てから懐かしそうに触ってる姿が印象に残ってるよ」

――渕さんから見たテリーさんの凄さはどこにあると思いますか?

▼渕「どんな選手に対してもちゃんと対応できる技量ね。それはテリーだけじゃなくてドリーも凄いよね。そういうのを見て憧れたよ。たとえばビル・ロビンソン相手でもホースト・ホフマンが相手でも、テリー・ファンクを見せて、そのうえでどんな相手でも対応できるんだよ。だからドリー、テリー、ファンクスは凄いなって感じる部分はあったね。一流の選手はみんなそうなんだけどね。ドリー、テリーは特に日本であれだけ人気が出て、アイドルレスラーって感じでやってきたからね。それこそ、それだけで憧れたよ」

――渕さんが83年夏に海外遠征から凱旋帰国されてNWAインタージュニア王者チャボ・ゲレロ選手に挑戦したのがテリーさん引退試合と同じ日でした。

▼渕「そうそう。同じ日にね、こっちは負けちゃったけどチャボ・ゲレロに(苦笑) テリー引退試合と鶴田さんとブロディのインターね。そんな大きな試合と同じ日に場を全日本プロレスが用意してくれてね。負けちゃったけれども、ありがたかったよね」

――テリーさんが復帰してから対戦する機会があったと思いますが?

▼渕「そうでもないよ。テリーとはそんなになかったなぁ。タッグ組んだのは1回あるけど。対戦したのはファンクスの最後の試合、あれぐらいじゃないかな、もしかすると。あれが最初で最後じゃなかったかなぁ。ブロディともそうだよ。ブロディとも1回しかやってない。ハンセンとは何回もやったけどな。ドリーとも何回もやったけど、テリーとは1回しかないんだよね。とにかく分かりやすいプロレスラーだったな。そういう面でいうと力道山に通じるものがあるよな」

――日本人的な部分があったと思います。

▼渕「テリー自身が日本が好きで、日本人が好きだからな。本当にそうだったよ。納豆も好きだし、刺身も好きだし、日本料理が大好きだったんだよ」

――また一人、全日本の歴史を作った偉大な人が亡くなり、9・8代々木大会での復帰戦で気持ちを新たにリングに立つことになると思いますが?

▼渕「何言ってんの。自分のことで精いっぱいだよ(笑) ただ、テリーとこうやって突然の別れが来ると思わなかったからね。もしかしたら、また会えるんじゃないかなって気持ちがあったんだよ。いつでも会えると思ったから、本当はサンキューって言葉を言いたかったね。お礼を言いたかった。人は突然いなくなるんだよね、こうやって。近々会えると思ってたんだけど、本当にありがとうございましたって伝えたいね」

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