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6/16【稔25周年興行】「頭を空っぽにして楽しんでもらえたら」 稔が語る25年間の思い出と6・18新木場大会みどころ

 6・18新木場でデビュー25周年記念大会を開催する田中稔。UWFに憧れる高校生活の後に1994年に藤原組でデビューし、格闘探偵団バトラーツ、新日本プロレスで活躍。新日本退団後はメジャー、インディー団体を問わず数多くの団体に上がり続け、今年3月には2017年から継続参戦しているNOAHでGHCジュニアヘビー級王座を初戴冠。丸藤正道以来2人目となる3大メジャージュニア王座制覇という偉業を成し遂げた。これまで数多くの団体で幾度も王座を獲得し、常にプロレス界の最前線を走り続ける稔だが、最初から順風満帆だったわけではなく、苦悩の連続だったという。稔にデビューからの25年間を振り返ってもらい、記念大会の見どころについて話を聞いた。

【稔インタビュー】
――稔選手は藤原組でデビューしてプロレスラーとしての人生がスタートしましたが、やはりUWFへの憧れがあったのでしょうか

▼稔「UWFは高校生のときに夢中になって見てて、高校生の時に履歴書出したんですけど返事来なくて。それで高校卒業して、鈴木みのるさんのファンだったので藤原組に入ったんですけど、メタメタにしごかれてですね、一泊二日で辞めちゃったんですよ。鈴木さんめっちゃ怖くて……。基本、心のある優しい方なんですよ。今でも怖いですけど、昔はその比じゃないと思いますね。でも本当に優しい方なんですよ。それで、1年半後の93年に藤原組に入り直して、94年デビューして、1年半くらいですかね。95年の11月を最後にみんなで辞めて、年末にバトラーツですね」

――バトラーツに入ってから稔選手が飛躍したという印象があります

▼稔「僕もキャリアの中で所属していたのは新日本プロレスが一番長いんですけど、バトラーツの印象を皆さん言われますよね。新日本に初参戦したときにバトラーツ所属だったので、印象が“バトラーツの選手"なのかもしれないですね」

――新日本プロレス参戦以外でバトラーツ時代で一番心に残っている思い出は?

▼稔「僕、UWF好きだったんで、RINGSに頻繁に上がらせてもらっていたのは楽しかったですね。すごくいい経験になりました。RINGSに上がっている外国人選手って一流ばっかりだったんで。僕が試合したのも柔道のヨーロッパチャンピオンだったり、菊田早苗選手とか、そういう選手と試合してたから度胸は付きましたね。あと、UWFのリングアナウンサーだった古田さん(故・古田信幸さん)にコールしてもらうのが夢だったんで、メチャメチャ嬉しかったですね」

――UWFから枝分かれした各団体の横のつながりはあったのでしょうか?

▼稔「UインターとRINGSはダメだったと思うんですけど、僕がいた藤原組はどこともOKだったと思いますね。あっ、PANCRASEとは最初ダメだったかも知れないですね。藤原組から抜けていった方たちなんで。PANCRASEとUインター、PANCRASEとRINGS、RINGSとUインターとかは絶対ダメだったはずですね、あの頃。藤原組とRINGSは業務提携みたいのしてたんで、全然。他の新人も同期が5人いたんですけど、僕が一番RINGSには呼んでもらってたんですよ。だからいい経験してましたね」

――以前のインタビューで『バトラーツの同期は仲が悪い』と話していましたが、実際のところは?

▼稔「ホント仲悪いんで(笑) バトラーツ時代って、結構バチバチが売りだったじゃないですか。でも僕はバチバチが嫌いだったんですよ。もうちょっと芸術性が欲しいなと思って。ただの街の喧嘩みたいな攻防が嫌いだったんで、どっちかと言うと同門対決よりも他団体の選手との試合が多かったですね。だから今回の大会もTAKAさん(TAKAみちのく)とか望月さん(望月成晃)とかになっちゃって。あと、バトラーツのメンバーだったら、同い年だけど3年後輩で同じバトラーツでジュニアをやってた日高(日高郁人)が入ってくれればもういいかなって。同期はもういいやって(笑)」

――BASARAの阿部史典選手がバトラーツについてよく熱い想いを語っていらっしゃいます

▼稔「あー! 阿部くんね!(笑) 阿部くんは伝説的な感じで選手同士が仲悪いって聞いてて、ホントに仲悪いの知ったときにすごい喜んでましたね。『ホントに仲悪いんだ!』って(笑) ホントにちゃんと仲悪かったんで(笑)」

――その後、バトラーツから新日本プロレスへ戦いの場を移すことになりますが、新日本プロレスに参戦し始めた頃は苦労も多かったと思います

▼稔「あの当時はメジャーとインディーがすごいクッキリ分かれてたんで、インディーの選手はみんなシリーズ完走しないで潰されていくんですよ。僕も最初のシリーズで、高岩さん(高岩竜一)に東京ドームで生まれて初めて記憶を飛ばされたんですよ。だからあの長い花道を歩いた気持ちいいアレも覚えて無くて(笑) あとで映像見て『あぁ、こんな感じだったな』って思うだけで。あのときキャリア5年目だったんですけど、初めて全く記憶がなくなったんですよ。顔面にラリアット食らって。覚えてないんですけど、映像で見ると後頭部に一発食らって顔面にバゴーンと!(笑) その一年後に、僕が新日本にレギュラー参戦してて、当時闘龍門のCIMAくんとスモウ“ダンディ"フジさん(現:ドン・フジイ)と試合したときも、高岩さんに思いっきり顔面にラリアット食らって、もうノビちゃって。そのときは後で記憶戻ってきたからいいですけど。あと、南条隼人さん(現:赤城)も高岩さんにアゴへし折られてそのままリタイアしちゃったりとか。みんなそんな感じでしたね」

――金本浩二選手とはジュニア・スターズを結成することになるのですが、そのきっかけは?

▼稔「僕が金本さんに初めて静岡でIWGPジュニアに挑戦したときに、『一発殴られたら三発殴り返してやろう』って感じでビンタしたら、それで金本さんに認めてもらえたんですよ。みんなビビってやり返してこないのに僕はやり返してくるんで、それで気に入ってもらって一緒に組んでタッグのベルト獲って、新日本に入団して……っていう流れになっていったんですよ。金本さんとの出会いは大きいですね」

――その後、新日本プロレス所属となってIWGPジュニアヘビー級王座、IWGPジュニアタッグ王座の戴冠や、BEST OF THE SUPER Jr.優勝など華々しい活躍を見せていくことになります

▼稔「当時、インディーの選手が潰されていって“最後の切り札"みたいに言われてたんですよ。それで東京ドーム出て、その日すごいラインナップだったんですけど、週刊ゴングに『高岩vs田中がベストバウト』って言われてすごい嬉しかったんですよね。……試合覚えてないんですけど(笑) それで、当時僕はインディー団体から来てて、とにかく皆さんにあいさつしなきゃと思って、練習終えて東京ドーム着いたら選手もみんなバラバラにいるわけですよ。それで走り回ってあいさつしていったんですけど、最初皆さんインディーの選手に冷たいんですよ。眼の前であいさつしても見てもくれずにシカトする選手もいたりとか。でも、その日の試合がすごく盛り上がったので、その後いっぱい話しかけてもらったり。その試合が良かったんで、そのあと控室に永島さん(永島勝司)が来て、『スーパージュニア出られるか?』って話をしてくれたらしくて。記憶飛んでて覚えてはいないんですけど(笑) あの東京ドームの試合で人生変わったんですよ。勝てなかったけど爪痕を残せて、そこからスーパージュニア参戦があって、そこで長州さん(長州力)にすごい気に入ってもらって、参戦から2ヶ月くらいでIWGPジュニアに挑戦させてもらって、そこからレギュラーになっていって……って感じでしたね」

――新日本プロレス時代の話というと、ヒート時代の思い出は?

▼稔「実は今でもちょくちょくやってるんですよ(笑) 近いところで言うと、去年もNOAHのクリスマス大会で出たり、ちっちゃい団体だと『ヒートでやってくれ』って言われて出ることもちょくちょくあるんで、意外とちょくちょくやってるんですよ(笑) 2年くらいやったんですけど、最初の1年は嫌で仕方なかったですね。マスクマン希望があったんで、マスクマンやれることになったときにはすごく嬉しくて。最初の打ち合わせ行くときもデザインとか全部関われると思って車運転しながら『あんなアイディア出そう、こんなアイディアも出そう』って思いながら行ったのに、マスクは全部出来上がってたんですよ。それが自分が思い描いていたマスクマンとギャップがありすぎまして。それを見て『こんなんじゃやりたくねーなー』ってはじめから気持ちが乗らない状態で最初の1年間は嫌々でしたね」

――ヒート初期は苦難の時代だったと……

▼稔「「ゲーム会社から、ヒートの名前ができる前から『マスクマンのキャラクターの中身を稔さんにやってほしい』って話が来てて、僕はタイガーマスクファンだったんで『やりたいです!』って即答したんですけど、最初のプランだと、普段は田中稔がいて、両国・武道館・ドームとかでマスクマンになるっていうものだったんですよ。その頃は、IWGPジュニアまで獲って女性人気も上がってきてたんですけど、その話をもらう一ヶ月前に結婚してですね、女性ファンがガクーッと減って自暴自棄になってたんで、『田中稔は消しても大丈夫です。僕はマスクマンだけやります』って言ってしまったのが失敗だったなと」

――初代タイガーマスクこと佐山サトル選手もデビュー戦のマスクの出来が悪く嫌で仕方なかったと振り返っています

▼稔「でも、試合で一気にインパクト残しましたもんね。僕もあの一発でタイガーマスクのファンになりましたもん! ダイナマイト・キッドさんとのデビュー戦は僕も何度も見てます。佐山先生がいなかったら僕もレスラーを目指すことはまず無かったですね」

――ヒートは発表記者会見で正体を明かすという衝撃的な登場でした

▼稔「ヒーロー物って、戦っているときは変身してるけど普段は素顔を晒しているじゃないですか。あんな感じで行かないかって。『新しいですね〜!』って話になっていたんですけど、新しすぎましたね。メチャメチャ批判されましたもん(笑) 正体が分かっていても言っちゃいけないみたいなのがあったんですけど、新しい感覚のマスクマンをやろうって。だから、あの頃もセコンドに付いているときは素顔だったんですよ。移動時とかもオーバーマスクとかプライベートマスクとか被らないでいて。田中稔時代にブーイングもらうことって無かったんで、ヒートをやり始めたときに、プロレスファンの優しいブーイングじゃなくて、本気の怒号が飛び交ったんですね、東京ドームに(笑) それでメチャメチャ落ち込んだんですけど、それを超えて開き直ったというか、『こんな経験なかなか出来ないな』って思いながらやってて」

――しかし、その後ヒートとしてIWGPジュニアヘビー級王座の連続防衛記録を更新するといった偉業を成すことになります

▼稔「ヒートを1年やってから海外修行に行ったんですよね。ロス道場に1ヶ月半と、メキシコに3週間。その時に自分の中で、『会社はヒーローヒーローした感じのをやってほしいと思ってるけど、自分のやりたいようにやったらどうなるんだろう』と思って、勝手に別のところに新しいコスチュームとマスクを発注して、入場曲も歌が入ったヒーローっぽいやつじゃなくてギターバージョンにして、勝手に変えてやったんですよ。会社にメッチャ怒られたんですけど、そこから自分でもやってて嫌な気持ちが無くなったのと、そこからIWGPジュニア巻いて、未だに11連続防衛は破られてないですけど、それがヒートで出来て。ヒートの最後の1年は楽しかったですね」

――その後、マスクを脱いで素顔で試合をしていくことになります

▼稔「マスクを脱ぐきっかけが、邪道さんと外道さんのIWGPジュニアタッグにヒート&金本組で挑戦するっていうのがあって、仙台で僕がウルティモ・ドラゴンさんの挑戦を退けて、ライガーさん(獣神サンダー・ライガー)が持ってた記録に並んだんですよ。その日に邪道さんたちがガーッと来て、僕がマスクを脱いで、金本&田中にカード変更だ!ってなって、両国で金本さんとジュニスタ復活でやったんですけど、そこで金本さんを裏切ってC.T.Uに行くっていうのがあったんです。泣いてる子もいました。あの頃はファンも熱いんで。あのときは10月にも両国で、11月にも両国だったんですよ。なんかもう、金本さんファンが掴みかかってきたりするんですよ、地方に行っても。ファンと揉めるのメチャメチャありましたね、あの頃は」

――その後、新日本プロレス時代末期から退団までは、結果だけで見ると不遇の時代だったと言えると思います

▼稔「C.T.Uは楽しかったんですよ。でも、当時の親会社から出向してきてる人が、自己紹介とかも無いままでサイトのコメントとか見て『ここはこうなんで』とか言ってくるんですよ。僕、そういうのメチャメチャ嫌いで。でも、その人に逆らうとみんなチャンスもらえないから、大人としてちゃんと接してるんですけど、僕と金本さんだけは反発してたんですよ。『なんでこんな人に従わなきゃいけないんだ』と。そんな感じでいたら、案の定チャンスが全然無くなってきて、いつも第1試合だったりとか、若手とシングルとかばっかりになってきて。僕はそれまでジュニアの選手の中でも大会の中で試合が入ってないこととか無かったんですよ。最後の2年くらいから反発し始めて、それから後楽園3連戦とかでも一個も試合が無いこととか増えてきたんですよ。でも、だからって急にその人にゴマ擦るのも嫌じゃないですか。怪我も多かったんで、最後の一個前に契約をするときに、その場にその人もいたんですけど、ホントはその場で『辞めます』って言ってやりたかったんですよ。でも、家族を路頭に迷わせるわけにはいかないんで、妥協してサインをしたんですよ、僕は。それがすごい嫌だったんですよね、妥協してしまったことが。それで、サインした日に嫁に『来年辞めるけどいいか』って話して、最初、嫁は『困る』って言ってたけど、『新日本辞めてもちゃんとどこかに上がれる自信あるから』って説得して。親会社の社長さんとかは本当にいい人だったんですけど、1人だけ合わない人がいて、モチベーションも上がらなくなったって感じですね」

――フラストレーションを抱える辛い時代が続いたんですね

▼稔「でも、嬉しいこともあったんですよ。真壁選手(真壁刀義)と仲良かったんですけど、真壁選手に僕が辞めそうなのを察知されて、巡業中に、あれは大阪だったと思うんですけど、真壁さんから『稔さん今何してるの?』って電話来て、『部屋でテレビ見てます』って言ったら『部屋行っていい?』って言われて2人で話したんですけど、『稔さん、辞めようとしてるでしょ』って言われて、上手く誤魔化してたんですけど、『稔さんは顔に出しすぎるからダメだよ。俺らだって腹立つことはあるけど、腹の中で舌出してハイハイ言っときゃいいんですよ稔さん』って言ってくれて、俺、もうボロボロ泣いちゃって。そのときはもう辞めるの決めてるし、後戻りもできないし……。そのときにはもう上井さん(上井文彦)を通して違う団体とも話をしてたんで。引っ込みがつかなくなったと言うか、今思うと、大人になって社会人としてやってりゃ良かったのかなと思うんですけどね、僕も一般の社会人だとしたら、家族を守るために嫌な上司にも頭ペコペコ下げてやってたと思うんですよ。でも、プロレスラーになるって小学生からの夢じゃないですか。だから……うん、出来なかったですね。大人になれなかったです」

――真壁さんは本当にいい人ですね……

▼稔「いや、ホント!メッチャメチャいい人! 口悪いけどメッチャメチャいい男なんですよ! 年同じなんですよ。仲良かったからよく飯行くんですけど、誰も同い年に見てくれてなかったですね(笑) 俺のほうが若くてキャリアも全然下に見られるんですけど、俺のほうがキャリア上ですからね(笑) もうホント、ハートのあるすごいいい男なんですよ。僕が新日本に上がり始めたときも、僕は大谷さん(大谷晋二郎)とかとやるのを目指してる中で、ジュニアに入りたての真壁選手がすんごい食いついて敵意むき出しで来て、シングルも何回もやりましたけど、いつもドッカンドッカン来る試合でしたね。一緒に飯行ったり、一緒に洗濯行ったりよくしてましたよ」

――新日本プロレスに嫌な思い出があるというわけでは無いんですね

▼稔「いやいや! 最後も親会社から出向してきたその1人と合わなかっただけで、新日本時代に知名度も上げられたし、プロレスをすごく学ばせてもらったし、新日本プロレスがなければ今の僕もなかったと思ってます。新日本プロレスには感謝しかなかったですね」

――新日本プロレスを出てからは、インディー含む様々な団体に出場されています

▼稔「フリーになって、僕を求めてくれるところには全部出たいし、使ってくれた人に『田中稔使って良かった』と思ってもらえる試合をしようと決めていたので、そのときもZERO1や全日本や、他にもちっちゃいところいっぱい出てましたけど、どこに呼ばれても『田中稔を呼んで良かったな』って思って欲しいと、頭の中はそれだけでしたね。新日本を辞めるとそのままフェードアウトしていく選手も多かったですけど、『俺は絶対消えない!』っていう自信があったので」

――全日本プロレスやWRESTLE-1に所属したこともありました

▼稔「全日本にバーニングの5人が来たじゃないですか。秋山さん(秋山準)と潮崎くん(潮崎豪)と、鼓太郎くん(鈴木鼓太郎)と、青木くん(故・青木篤志さん)と、金丸くん(金丸義信)が来て、『ジュニアが絶対面白くなる!』っていう時期だったので、別れたくなかったんですけどね、あのときの社長がいたじゃないですか。余計なことばっかり言う。あの社長が嫌だっただけで、武藤さん(武藤敬司)から誘いの電話とかももらってた中で、『武藤さんに付いていきたい』と言うよりも、『あの社長の下では無理』って感じでしたね。気持ちとしては残りたいってわけでもなかったんですけど、鼓太郎くんと青木くんとで、ジュニスタでアジアタッグよくやってたんですけど、今でもNOAHでは鼓太郎くんとやることは多いですね。鼓太郎くんとは手が合うというか、心地いいですよね、試合が」

――その後2017年からNOAHに参戦するようになり、IWGPジュニアヘビー級、世界ジュニアヘビー級王座、GHCジュニアヘビー級王座を獲得するジュニアのメジャー制覇を成し遂げました

▼稔「GHCジュニアだけは唯一巻いていなかったベルトなんで、どうしてもNOAHに上がりたかったんです。ジュニアのメジャー制覇に王手をかけてる選手は結構いるんですけどね。ライガーさんと高岩さんはあとは世界ジュニアだけだったり、鼓太郎くん、近藤修司くん、金丸くんもあとはIWGPジュニアだけ獲ればっていう状況で王手かけてる選手がいっぱいいたんで、誰かが先にやっちゃうかなあと思いながら。でも、丸藤選手(丸藤正道)に次ぐ2人目になれたので良かったです。なかなか今の新日本に上がるの難しいと思うんですけど、金丸くんは新日本に上がってるんで出来ないことはないですよね」

――今回の記念大会の話になりますが、メインの記念試合以外でも、奥様である府川唯未さんがプロデュースする女子プロレスマッチもあります

▼稔「嫁が全女(全日本女子プロレス)にいたんで、Sareeeちゃんをとにかく上げたかったんですよ。だから、伊藤さん(伊藤薫)とか、京子さん(井上京子)とかが全女イズムを叩き込んだ子っていうのでSareeeちゃんが真っ先に浮かんだんです。それで、Sareeeちゃんの対戦相手を考えたときに、うちの下の娘がアイスリボンのつっか(藤本つかさ)が好きなんですよ。その関係でアイスリボン見に行ったときに、ジュリアちゃんが気が強くてすっごいいい試合してたみたいで。Sareeeちゃんとジュリアちゃんが初対決なんで組んだら、週プロさんの『令和に期待するレスラー』って企画で2人とも入ってたんですよ。期待されてる2人だから良い試合見せてくれるんじゃないかなって。Sareeeちゃんもジュリアちゃんも、もちろん他のすべての試合もそうですけど、僕の記念興行だからって気を使わないで、その日のベストバウト取ってやろうという気持ちでやってもらって全然構わないです」

――セミファイナルでは、現KING of FREEDOM WORLD王者の葛西純選手と、現BJW認定デスマッチヘビー級王者の木高イサミ選手が出場します。その2人と3WAYマッチで対戦する“X"にも注目が集まります

▼稔「カード発表して、ファンの人が『おぉ!』ってなったのはそこですよね。葛西くんも木高くんもそれぞれFREEDOMSと大日本プロレスのチャンピオンですからね。Xもそれに釣り合う選手じゃないとお客さんも納得しないと思うんですけど……この試合はエニウェアフォールルールで会場全体を使えるルールなんで、そこがXのヒントですかね。会場全体、外にも行くかも知れない。そこから想像力を掻き立ててもらえれば(笑)」

――ご自身が出場されるメインの記念試合ですが、TAKA選手が急遽欠場となり、黒潮“イケメン"二郎選手が参戦することになりました

▼稔「焦りましたねぇ。大阪行くときに新幹線で寝てて、目が覚めたらLINEが入ってて『怪我したので出れなくなりました』って。どうしようと思ったんですけど、誰かにオファーするにしても、僕とゆかりがないとアレじゃないですか。それでTAJIRIさんが浮かんだけど、同じ日に全日本の後楽園があったんでダメだろうしなあと思ってたところで、TAJIRIさんの弟子で、WRESTLE-1で一緒だったイケメンくんが意外と暇だったんで(笑)」

――イケメン選手が入ることで試合はどのようなものになると思いますか

▼稔「彼はすごい度胸はありますよね。望月さんとイケメンが絡んだらどうなるだろうって自分の中でワクワクして、『やっぱりイケメンくんだな』って。望月さんもガチガチにやるじゃないですか。イケメンくんが何を見せてくれるか楽しみですね。ボロボロにされると思うんですけど、その中でも自分の世界を見せると思うんで、大したもんですよね」

――Hi69選手については

▼稔「Hi69くんとNOAHでチームを組んでるんで。最初はKAIENTAI DOJOでTAKAさんの一番弟子だったHi69くんと組ませたらどうだろうって思ったんです。2人も『最近は何年も組んでないんでやりたいです』って言ってくれたんで、そこからですね。TAKAさんが出られなくなって、TAKA&Hi69組が崩れた時点で、『じゃあ望月さんと組むんじゃなくて対戦したいな』って思って、望月さんとHi69くんと対戦するっていうカードに変えました」

――記念試合ではどういう試合を見せたいですか?

▼稔「自分でここまで深く興行に関わったことって無かったので、考える余裕が無いですね。その日は全日本さんの後楽園とも当たってるんで、満員になるのかなとか、不安ばっかりですね。やり切ってお客さんが満足してくれたら『またやろう』って思うはずなんですけど、準備してる段階では『自分で記念興行とかやるもんじゃねーな』って思いますね(笑)」

――最後に、ファンに向けてメッセージをお願いします!

▼稔「僕の25周年記念興行ではあるんですけど、バラエティ豊かな選手がいっぱい出てくるんで、これはいつも色々なところでも言うんですけど、頭を空っぽにして楽しんでもらえたらと思います。それだけですね」

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