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12/27【ハードヒット】光留が20周年記念試合で完敗も「生き残った証明」実感、鈴木「20年連れ添った仲間」

 『ニコプロpresents ハードヒット KING of HARD HIT tournament決勝戦』が27日、東京・新木場1stRINGで行われ、佐藤光留がグラップリングルールによる鈴木みのるとの師弟対決に臨み、完敗を喫したものの「生き残った証明」を実感。鈴木は「20年連れ添った仲間」と節目の愛弟子を評した。

 2000年2月にパンクラスでデビューした光留にとって、2020年は20周年の記念イヤーとなった。コロナ禍によって4月に地元・岡山で予定されていた記念試合が消滅したものの、8月29日に富士通スタジアム川崎(旧・川崎球場)で20周年記念大会を開催。諏訪魔を相手に24分45秒の激闘を繰り広げた。

 そして記念イヤーの締めくくりとなるこの日の新木場昼夜興行。まずは20周年記念試合として、師匠・鈴木と打撃なしのグラップリングルールで対決した。慎重に探り合うと、タックルで果敢に飛び込んだ光留だが、押し潰されて失敗。そのままグラウンドでコントロールされ、上腕を口元に押しつけられたり、チキンウイングアームロックで左腕を固められたりと苦もんするばかり。反則のローキックを食らう場面もあった。

 それでも光留はグラウンドに活路を求めてアキレス腱固めを仕掛けたものの、鈴木は涼しい顔で極めさせない。逆に胴締めスリーパーに捕まった光留はエスケープ。タックルでテイクダウンを奪っても、鈴木の堅牢なディフェンスの前に足関節に持ち込めず。逆に腕関節を極められて2度目のエスケープに追い込まれた。

 その後も鈴木が腹固め、足取りグラウンドコブラを次々に決めて手玉に取った。激しい攻防の中でいつしか光留は眉間から出血。それでも果敢に飛び込み、ヒザ十字固めで絡みついたが、鈴木がアキレス腱固めで切り返すと、逆片エビ固めへと移行。急角度で絞め上げると光留はたまらずギブアップした。

 「21年前、都筑区の道場で1999年の9月、ネオブラッドトーナメント美濃輪(育久/現・ミノワマン)さんが優勝して次の大会まで日がある時に、誰も道場に来なくて、鈴木さんがまだ欠場していて『おい、スパーリングやるぞ』って言って、毎日スパーリングやったんですよ1時間。あの時の攻防そのまんまでしたね」。そう苦笑しながら光留が振り返ったように、まるで二人がこれまで幾度となく重ねてきたスパーリングの延長のような寝技戦だった。

 鈴木とは10周年の時も対戦。完敗を喫した試合後、「悔しかったら俺のとこまで来い」とのメッセージをもらった。さらに10年の歳月を経たこの日、再び師匠の牙城に挑んだものの敗退。光留は「僕が10周年だった時、鈴木さん22周年だったんです。10年経ったなと思ったら、鈴木さんも10年成長してるんですよね。時間ってずるいなと思いますね」と悔しさを噛みしめた。

 「違う道で生き続けることが鈴木みのるに対する『僕、プロレスラーとして生きてます』という証明」。それが光留が考える鈴木への恩返し。「コロナで大変なことになってると思うんですよ。けど、人が本当に好きなこと、本当にやりたいことって、たぶん生き残るんですよね。それが進化だと思うんですよ。何とかして生きようとする気持ちと行動が進化だと思う」と持論を展開した光留は自身の主催興行、記念試合に鈴木を招へいし、戦うことができて「あれから10年生き残って、僕のとこに来てもらったんで。これは生き残った証明だなと」と噛みしめつつ胸を張った。

 一方、完勝した鈴木は愛弟子・光留と久しぶりに肌を合わせた。「愛(まな)でもないし、弟子でもねぇよ。俺に弟子なんかいねぇんだよ」と突き放したかと思いきや、「あいつが20年というなら、20年連れ添った仲間。俺に師はいるけど、弟子はいない。それだけだ」と続けた。弟子ではなく仲間。それは鈴木が20周年を迎えた光留を一人のプロレスラーとして認めたことの裏返しなのかもしれない。

【試合後の鈴木】
――愛弟子・光留選手の20周年の相手を務めたが?

▼鈴木「愛(まな)でもないし、弟子でもねぇよ。俺に弟子なんかいねぇんだよ。ふざけんな」

――では、鈴木選手にとって佐藤光留はどんな存在?

▼鈴木「どんな存在? そうね。あいつが20年というなら、20年連れ添った仲間。俺に師はいるけど、弟子はいない。それだけだ」


【光留の話】(大会終了後)
▼光留「もう年末にやらないと決めて5年。やめられないですね。昨日も3時まで仕事して、朝6時に起きて、自分は20周年で鈴木さんを迎え入れてリング上にいて、たまんなかったですね。これに変わるものはないんじゃないかな。コロナで大変なことになってると思うんですよ。けど、人が本当に好きなこと、本当にやりたいことって、たぶん生き残るんですよね。それが進化だと思うんですよ。何とかして生きようとする気持ちと行動が進化だと思う。今、抑圧された状況ですけど、進化はしたなと思いますね。グラップリングマッチで血出て、一回もエスケープ取れず負けてるんですけどね(苦笑)」

――鈴木さんとの戦いを振り返って?

▼光留「たぶんお客さんは、二人なんであんなことしてるんだろうと思う瞬間があったと思うんですけど、僕と鈴木さんが21年前、都筑区の道場で1999年の9月、ネオブラッドトーナメント美濃輪(育久/現・ミノワマン)さんが優勝して次の大会まで日がある時に、誰も道場に来なくて、鈴木さんがまだ欠場していて『おい、スパーリングやるぞ』って言って、毎日スパーリングやったんですよ1時間。あの時の攻防そのまんまでしたね(苦笑)僕がテンパって攻めるやつも20年前と同じだなと思いました。一回、鼻をへし折らないと。自分で自分のね。へし折らなくちゃダメなんですよ。おかしいな。8月の諏訪魔の時はリラックスしたんだけどな」

――パンクラス入門時からの怖さがあった?

▼光留「それはもちろんあると思うんですよ。ただ、これは偉そうなことを言わせてもらえば、一人のレスラーとして僕、鈴木さんと同じリングに立たないじゃないですか普段。言うたらハードヒットで僕が呼んで、天龍プロジェクトがあって、互いのメインで戦ってるところで絶対出会わないじゃないですか。すれ違いはあったけど。その時に思ったんです。一緒にやるんじゃなくて、違う道で生き続けることが鈴木みのるに対する『僕、プロレスラーとして生きてます』という証明だと思ったんです。だからよかったのかなと思うんですよね。絆とか師弟関係とかいろいろ言うけど、10周年でシングルやった時に『悔しかったら俺のとこまで来い』って言ったんです。あれから10年生き残って、僕のとこに来てもらったんで。これは生き残った証明だなと。ただ、生きてよかった、よかったじゃ終わらないぐらい足痛いんですけどね(苦笑)」

――証明という意味では、いつか鈴木選手に勝つというのもテーマになる?

▼光留「だから時間ってずるいなと思うのが、10年前、僕が10周年だった時、鈴木さん22周年だったんです。10年経ったなと思ったら、鈴木さんも10年成長してるんですよね。時間ってずるいなと思いますね」

――トーナメントは和田の優勝で終わったが?

▼光留「すいません。ペンダント僕がもってたんですけど、大流血で後ろで治療してたんで、持っていけなかったです。ワダタクさんも覚悟が決まった試合だったんで。今日他の選手もそうですよ。覚悟が決まった奴はみんな決まってましたね。コロナで覚悟を決めたのかもしれないし。覚悟が決まってる男はかっこよかったです。覚悟が決まってる女の試合も見たいなと思いますね」

――来年もハードヒットを開催すると?

▼光留「やります。たぶん来年もすぐにすぐコロナが収まって、はい、どうぞとはならないと思うんです。今年は5興行。来年は10を目指して。今、企画してるんですよ。長渕剛だけで入場するプロレスっていうのを。完全に非公開になると思います。何ていうかな。常識の外って手を出せば常識になるんですよね。実行してしまえば歴史になるじゃないですか。それを感じますね」

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