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1/15【DDT】坂口征夫が引退を電撃発表 2・7新宿でラストマッチ、HARASHIMAと一騎打ち

 坂口征夫が15日、東京・渋谷のAbemaTowersで会見し、現役引退を発表。2・7新宿大会でHARASHIMAとの引退試合が決まった。

 “世界の荒鷲"坂口征二を父にもつ坂口は2007年4月にパンクラスでプロ格闘家としてデビュー。2008年の大みそかには格闘技のビッグイベント『Dynamite!!』にも出場している。2012年からプロレスのリングに上がるようになり、DDTへの定期参戦を始めた。2015年にはシングル最強決定トーナメント『KING OF DDT』を制覇。同年8・23両国大会で団体最高峰のKO-D無差別級王座を初戴冠した。

 2020年1月に樋口和貞(脱退)、赤井沙希さん(引退)と武闘派ユニット“Eruption"を結成し、のちに岡谷英樹が合流。昨年11月には岡谷とのコンビでアジアタッグ王座を奪取し、史上初の“親子二代戴冠"を達成した。1・14鶴見大会で同王座から陥落し、Eruption解散を宣言したばかりだった。

 この日、会見に臨んだ坂口は「自分事ではありますが、2月7日、新宿FACEをもって引退させていただきます」と表明。「モチベーション、体力ともに落ちたわけではなく、頭の中で55まで現役でできるイメージがあるんです。昨年末には全日本プロレスの最強タッグで岡谷と組んで、ひとシリーズ戦い抜いて。ホント、プロレスっていろんなプロレスがあって、奥深くて面白いなって思っているのも現在の気持ちです。ただ、いつかこういうタイミングって誰しもが来るものじゃないですか。それが60歳なのか、70歳なのか、80歳なのか、わからないです。40歳でも、こういうタイミングって必ず来るんです。その“いつか"というタイミングが今なのかなと思って。会社のほうに話をさせてもらって、今回決断させてもらいました」と引退の理由を説明した。

 同席したCyberFight高木三四郎社長は「最初、坂口さんから意向を聞いたとき、慰留に努めましたし、まだまだできるんじゃないかと話をしていたんですけど。話をしている中で、坂口征夫という人の生きざまはこういう形が一番ふさわしいんじゃないかと思ったので。DDTにとって、選手の精神的な支柱としても、すごく頼りがいのある兄貴分だったと思いますし、すごくDDTにとっても大きなことだと思うんです。覚悟と信念をもって生きてらっしゃる方だと思うので、その坂口さんがここで引退すると決めたのであれば、それ以上止めることはできなかったです」と経緯を説明。「2月7日、みんなで送り出してあげたいと思ってます」と話した。

 引退ロードについて坂口は「長く湿っぽいのが続くのが嫌なので。引退ロードはせず、普通に試合して、普通に終わりたいな」との意向を示した。1・28後楽園、2・4長野、そしてラストマッチとなる2・7新宿と引退まで残り3試合。「最後の試合だけ、先ほどの話とは矛盾しちゃうかもしれないですけど、自分が入ったときから、これぞDDT。自分も尊敬してる選手で、ずっと対峙してきたHARASHIMAさん。“最後はHARASHIMAとサシで勝負させてくれ"ということだけお願いしました」と希望を団体側に伝え、正式に決まった。

 そして、「最後のやり残した一つ」として元Eruptionの後輩・岡谷との対戦を希望。「昨日、解散したなかで、岡谷の成長がすごく。最強タッグを一緒に戦ってきて。ホント変わったなと思ってきた」と評した坂口は「ボス、岡谷とサシで勝負させてください。あいつがどれだけか、自分の体をもって知りたいと思いますのでよろしくお願いします」と高木社長に訴え、これも会見後に1・28後楽園大会で行われることが決まった。

 1990年3月、高校生だった坂口は父の引退試合を目の当たりにし、学生服姿で引退セレモニーにも立ち会った。「木村健悟さんとタッグ組んで、普通に試合して、普通に木村さんが勝って。その姿がすごい焼き付いてるんです。だから特に引退ロードという大それたものは必要ないし、悲しいのが長く続くのが嫌なので。笑顔がないかもしれないですけど、普通にやって、普通にみんな笑って、それで終わってもらえれば」。そう振り返った坂口は普段通りでプロレスラー人生に終止符を打つ。

☆1/28(日)東京・後楽園ホール『Sweet Dreams!2024』10:30開場、11:30開始

▼坂口征夫後楽園ファイナルマッチ〜スペシャルシングルマッチ
岡谷英樹
vs
坂口征夫


☆2/4(日)長野アークスホール『Into The Fight 2024 TOUR in NAGANO』12:30開場、13:00開始

▼スペシャルタッグマッチ
樋口和貞
平田一喜
vs
アントーニオ本多
坂口征夫


☆2/7(水)東京・新宿FACE『Into The Fight 2024 TOUR in SHINJUKU』18:20開場、19:00開始

▼坂口征夫引退試合
HARASHIMA
vs
坂口征夫


【会見の模様】

▼坂口「自分事ではありますが、2月7日、新宿FACEをもって引退させていただきます。理由に関してモチベーション、体力ともに落ちたわけではなく。頭の中で55まで現役でできるイメージがあるんです。昨年末には全日本プロレスの最強タッグで岡谷と組んで、ひとシリーズ戦い抜いて。ホント、プロレスっていろんなプロレスがあって、奥深くて面白いなって思っているのも現在の気持ちです。ただ、いつかこういうタイミングって誰しもが来るものじゃないですか。それが60歳なのか、70歳なのか、80歳なのかわからないです。40歳でもこういうタイミングって必ず来るんです。その“いつか"というタイミングが今なのかなと思って。会社のほうに話をさせてもらって、今回決断させてもらいました」

▼高木社長「最初、坂口さんから意向を聞いたとき、慰留に努めましたし、まだまだできるんじゃないかと話をしていたんですけど。話をしている中で、坂口征夫という人の生きざまはこういう形が一番ふさわしいんじゃないかと思ったので。DDTにとって選手の精神的な支柱としても、すごく頼りがいのある兄貴分だったと思いますし、すごくDDTにとっても大きなことだと思うんです。覚悟と信念をもって生きてらっしゃる方だと思うので、その坂口さんがここで引退すると決めたのであれば、それ以上止めることはできなかったです。2月7日、みんなで送り出してあげたいと思ってます。思えば、いろんな思い出がいっぱいあって、(2021年の)『CyberFight Festival』で金剛と試合したとき、自分より年齢は下なんですけど、本当に頼れる兄貴だったと思います。プロレス界に足を踏み入れたときも、もともと総合格闘技を始められたとき、なんでプロレスをやらなかったんだろうって思ってたんです。でも、いろいろと話してる中で、いろんな事情があったり、プロレスに対するリスペクトが強かったり、なかなか足を踏み入れることはなかったんだなと。DDTだったら全然そういうしがらみもないし、やれますよってお誘いした。それを引き受けてくれて、10年以上やってくれて敬意を表したいと思っています。坂口さんをちゃんと送り出してあげることが、僕らにとっての務めなのかと思います。2月7日まで皆さんの目に焼き付けてください」

▼坂口「補足させてもらえれば、高木さん、松井さん(幸則レフェリー)と何度も話をさせてもらって、留意の話も来たんですけど、自分自身の気持ちが変わらないというのと、これは自分の身勝手な話なんですけど、性格上、長く湿っぽいのが続くのが嫌なんで。できれば選手、マスコミ、ファンの方も含めて、当日にお話しさせていただければなというのが一番最初の考え方だったんですけど。それじゃ筋が通らないだろうということで、残り短い、急な発表になっちゃったんですが、このタイミングで発表させていただきました」

――引退ロードについて

▼坂口「長く湿っぽいのが続くのが嫌なので。引退ロードはせず、普通に試合して普通に終わりたいなと。来週、台湾で試合するので、残り(1・28)後楽園ホール、(2・4)長野(アークスホール)、2月7日、新宿。DDTのリングに上がるのはあと3試合ですね。うちの親父の引退のとき、見てたんですけど。高1くらいのときかな。木村健悟さんとタッグ組んで普通に試合して、普通に木村さんが勝って。その姿がすごい焼き付いてるんです。だから特に引退ロードという大それたものは必要ないし、悲しいのが長く続くのが嫌なので。笑顔がないかもしれないですけど、普通にやって普通にみんな笑って、それで終わってもらえれば。DDTっていろんなものを出してくる現在進行形の団体。その中で一回、自分は足を止めます。だから止まる人間の足を見る、自分を見るのではなく、これからもっともっと出てくる人間たちを見てほしい気持ちもあるので。特に引退ロードをせずに終わりたいという形でお願いしました」

――引退試合に関して

▼坂口「最後の試合だけ、先ほどの話とは矛盾しちゃうかもしれないですけど、自分が入ったときから、これぞDDT。自分も尊敬してる選手で、ずっと対峙してきたHARASHIMAさん。“最後はHARASHIMAとサシで勝負させてくれ"ということだけお願いしました」

――父には報告した?

▼坂口「(報告は)しましたけど、“ふーん"って感じでした。親父の中で俺は俺、お前はお前みたいなものもあるし。俺の中でも親父は親父、俺は俺だし。俺、50っすよ。20歳くらいの子どもじゃないんだから、親がどうこういうものもないなと思ってるし、親父も思ってる。そういった中で親父は“お前が決断したんだからいいんじゃないか"っていう感じだったんじゃないかなというのが、“ふーん"というものに込められているんじゃないかと解釈したので」

――DDTでの思い出は?

▼坂口「うちの家柄だと、プロレスというものが生まれてすぐ目の前にあって。子どもの頃、遊ぶ公園が新日本プロレスの道場で。近くの遊んでくれるお兄ちゃんがレスラーであって。そういう家柄で生まれて、ある種、宿命みたいな感じ。この稼業をやることは宿命みたいに感じてたんですけど。いつからか坂口という名前が嫌で嫌でしょうがなかったんです。名前を変えたい、苗字を変えたいと思ったときも何度もあります。坂口という名前を捨てたい、逃れたいというのがずっとありました。DDTに入って、その呪縛から解いてくれたのがこのDDTなんです。ここにいる仲間たちなんです。今じゃ大手を振って“俺は坂口だよ"って言えるようになったんです。ずっと新日本プロレスを見てて。ある日、テレビをつけたとき、両国国技館のマス席をボス(高木)が練り歩いてて。何やってんだ、この人たちって思って。そこは衝撃的で。その団体に入らせてもらえる。そこで試合ができる。夢のようでした。DDTらしい試合もそうですし、このいい年こいたオッサンたち、いい年こいた大人がマジメな顔して全力でバカをするのがDDTだと思っていたので。いっぱい思い出ありますよ。パンスト被ってレスリングしたのもそうですし、ビアガーデンプロレスで泥酔してリングに上がったのも、ごめんなさいって話だったんですけど。HARASHIMAさん、入江(茂弘)、しのぎを削ってきた。それもよき思い出。アントン先生(アントーニオ本多)の話も、平田(一喜)のバカも含めて、みんな思い出。Eruptionの結成もそうだし、一昨年の樋口との試合もそうだし。今欠場してるかもしれないけど、吉村(直巳)と横浜でやったD王もそうだし。いろんな思い出がいっぱいあって、一冊の本になるくらいじゃないですか。すべてが自分にとっちゃ大事なことで。こんな入れ墨入ったおっかなそうなオッサンがマジメな顔してバカなことをやるって、ここのリングじゃなきゃできないんですよ。それがすべての思い出だと思います」

――前日の鶴見大会でアジアタッグ王座を防衛していた場合、決断は先になっていた?

▼坂口「1度目の防衛戦が終わって、昨日のチャレンジャーが目の前に来たとき、俺らはいつでもベルトを失ったら解散する、それくらいの気負いをもって試合に挑んでたので。昨日の試合が決まった時点から、自分は発言していたこともあって。仮に昨日、防衛していたとしても、自分の中の気持ちは変わらず。結果論ですけど、勝ってたとしても辞めるというタイミングは崩さなかったと思います。崩さずにアジアタッグのベルトは返上させていただいて。PWFの管轄に戻していただけたらなと思いますし。一番やられちゃいけないルール(電流爆破)で、一番ダメな負け方をしてるんで。これは岡谷とも話してたんですけど。Eruption解散には皆さん思うところがあるかもしれないですけど。自分はそのつもりで毎回戦っていたというのは感じ取っていただけたならと思います。一個やり残したことがあったんだ。昨日、解散した中で岡谷の成長がすごく。最強タッグを一緒に戦ってきて。ホント変わったなと思ってきたので。最後のやり残した一つとして、ボス、岡谷とサシで勝負させてください。あいつがどれだけか、自分の体をもって知りたいと思いますのでよろしくお願いします」

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